Latest Entries

Ads by Google

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

サラ・ヒューズ

サラ・ヒューズ(Sarah Hughes、1985年5月2日 - )はアメリカ合衆国ニューヨーク州グレート・ネック出身のフィギュアスケート選手。身長160cm。エール大学在学中。父親は元アイスホッケー選手。6人兄弟の4番目。兄と姉の影響で3歳からスケート始める。ジャンプ、スピンが逆回転となる特徴を持つ。フィギュアスケート選手のエミリー・ヒューズは妹。
1999年の世界選手権に初出場し、7位。
2001年「スケート・カナダ」でミシェル・クワンとイリーナ・スルツカヤを退け、初優勝。
2002年ソルトレークオリンピックではアメリカ3人目の代表として出場。クワンや、サーシャ・コーエンより期待されていなかった。ショートプログラムでは4位になり自力優勝の可能性がなかったが、フリー演技で3-3回転ジャンプを2回成功するなどして、総合暫定トップに躍り出る。その後、金メダルの有力候補であったクワンが、フリーで氷に手を着くなどのミスをしたが、演技を終えた時点ではフリーでヒューズに次ぐ暫定2位、総合ではクワンが暫定1位だった。さらにその後、最終滑走のスルツカヤがフリーで2位となったため、逆転の金をメダル獲得した。詳細は、ソルトレイクシティオリンピックにおけるフィギュアスケート・スキャンダルを参照してください。
サラ・ヒューズの優勝はアメリカ国民の愛国心を大いに高揚させてアメリカ国内ではベスト・エンディングと受け止められたが、他国のフィギュアスケート・ファンからは「わかりづらい」といったような批判が殺到。よりわかりやすく、多くの点を獲得した選手が勝つ方式に変更されることとなった。
2002-2003シーズンの世界選手権を最後に、アマチュア競技会から遠ざかっている。2002年ジェームスサリバン賞を受賞。現在は学業に専念中。
その他
野球ではニューヨーク・メッツファンである。
女子 フィギュアスケート

2002
ソルトレーク
フィギュアスケート
女子シングル
主な成績
1999-2000年 
全米選手権 4位
世界選手権 7位
2000-2001年
世界選手権 3位
2001-2002年
「スケート・カナダ」初優勝
全米選手権 3位
ソルトレイクシティオリンピック 金メダル
2002-2003年
世界選手権 6位
外部リンク
アメリカフィギュアスケート協会によるプロフィール(英語)
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BA" より作成
カテゴリ: 1985年生 | アメリカ合衆国のフィギュアスケート選手 | 冬季オリンピックメダリスト | オリンピック金メダリスト

関連の高いサイト

今ごろは・・・
?で、残りの人はハイライト・・・ってとこかな。1時間半だしね。たしか、以前、代々木でSOIがあったとき(多分、一昨年?)サラ・ヒューズが来た時ですけど、日テレが放送して、大ちゃんがカットされたのを覚えています。今じゃ、考えられませんよ

毒舌フィギュアスケート評。
や、サラ ・ ヒューズ (米、ソルトレーク金)、サーシャ ・ コーエン (米、トリノ銅)である。そして、イトウとその友人の見た目では、浅田も軽やか系である。軽やか系は、一体全体、難しい。タラ ・ リピンスキー は長野で金を取った時、15歳。サラ ・ ヒューズ も

フィギアとバトン
えーっと、私はフィギアスケートファンです。今年のトリノオリンピックから本格的にはまった。一番好きなのは男子シングルス。あとはダンスです。元々接点はあったんです。F1と同じように姉が好きだったので。一番古い思い出はソルトレークのEXで、サラ・ヒューズがパ

フィギュアスケート〜氷上の舞踏会
エンターテイナーが存分に発揮される所だ。アイスダンスの選手を見てて、思わず見惚れて、抱えてた本を足の上に落としてしまい、痛かった・・・フィギュアで好きなのは、ロシアのアレクセイ・ヤグディン、サラ・ヒューズ等々です。いつか、氷上の舞をリンクで見てみたいものです

米国のアイスショウで荒川静香の
限りなくゼロに近いものでした。確かに、日本人においても、トリノ・オリンピックのペアやアイスダンスの金メダリストの名前を言える人はほとんどいないでしょうし、サラ・ヒューズと聞いて4年前のソルトレーク・オリンピックの女子シングルの優勝者だとすぐに答えられる人も少ないでしょう

真央ちゃん、次の世界選手
キム・ヨナ(16才)とその年にシニア選にデビューした若い選手が優勝しています。女子フィギュアでは勢いの乗って若い選手が優勝することはよくあることです。4年前のオリンピック(リレハンメル)で誰が優勝したか覚えていますか?サラ・ヒューズ(

今更すぎる今更ですが
えええ、大変今更サラ・マイヤー(ごめんなさいっ、これが言いたかっただけで、もちろんサラちゃんに恨みがあるわけではないので、じゃあ、サラ・ヒューズにしといたほうが良いですかね)、ともかく今更なのですが、コメント返しさせて頂いてよろしいでしょうか?あ

GPF歴代メダリスト(女子シングル)
荒川静香(日本) ロシェット(カナダ)2005/2006 浅田真央(日本) スルツカヤ(ロシア) 中野友加里(日本)★★は五輪シーズン 「ヒューズ」はサラ・ヒューズリストを眺めているうちに、私も懐かしくなってきたので、動画を探してきました。といっても、GPファイナルで

フィギュアNHK杯・浅田真央ちゃん
いるわけではない」 ワシントン・ポストの五輪年齢制限に対してのインタビュー↓ クリスティ・ヤマグチ 「フィギュア女子はWomenではなくLadiesなのです」 ウクライナ NCBのインタビュー↓ オクサナ・バイウル 「真央のスケートから芸術性は感じられません」 ABCのインタビュー↓ サラ・ヒューズ「真央は実質2

GPシリーズ・仏大会
でもいまひとつの結果になってしまい ました。また、昨年のようなキラキラ・ハツラツとした動きがなく、どことなく 疲れているように感じられたのは気のせいでしょうか。実力的にはサラ・ヒューズ とかとそれほど差がないくらいの素質の持ち主だと思うので、



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

伊藤みどり

女子 フィギュアスケート

1992
フィギュアスケート 女子
伊藤みどり(いとう みどり、1969年8月13日 - )は、フィギュアスケート選手。愛知県名古屋市出身。東海女子高等学校(現、東海学園高等学校)、東海学園女子短期大学卒業。身長145?。 アルベールビルオリンピックの女子フィギュアスケート銀メダリスト。“ジャンプの伊藤”として世界的に名前が知られ、全日本選手権8連覇、女子選手として世界で初めて公式戦でトリプルアクセル(3回転半)を成功させるなど、女子フィギュアスケート界に数々の金字塔を打ち立てた。伊藤の突出したジャンプ技術は、それまで優雅に氷上を舞う芸術だったフィギュアスケートを、鍛え上げられたアスリートが技を競い合うスポーツへと変革させた。2004年3月25日、世界フィギュアスケート「殿堂」入り。
目次
1 来歴
2 Tsunami Girl
3 トリプルアクセル
4 天真爛漫な苦労人
5 長野オリンピック
6 戦績
7 関連書籍
8 関連項目
9 外部リンク
//
来歴
4〜5歳の頃にスケートを始め、6歳から本格的なスケート競技に参加。中日スケートクラブで山田満知子コーチに師事。1980年に、小学校4年生で全日本ジュニア選手権で優勝し、同じ年にはシニアの大会全日本フィギュアスケート選手権で3位となり、「天才少女スケーター」と呼ばれるようになる。1984年のサラエボオリンピックは、14歳の伊藤は年齢制限で出場資格が無かったが、日本スケート連盟は、「オリンピック開催年に世界ジュニア選手権で3位以内に入れば資格を与える」という特例を活用し伊藤を五輪へ出場させるため、1983年の世界ジュニア選手権を札幌に招致。伊藤は3位となる。しかし、翌84年の全日本選手権では、規定で出遅れ、さらにフリーのダブルアクセルで予想外の転倒をしたため、加藤雅子に次ぐ2位に終わり、日本人女子フィギュアの五輪出場枠が1人だったことから、伊藤は14歳での五輪出場を果たせなかった。
1985年、中学校3年生で全日本選手権で初優勝。以後、1992年の神戸大会まで優勝を重ね、渡部絵美と並ぶ史上最高8連覇を達成する(後に1996年の横浜大会においても優勝したため、通算9回優勝。前人未到の記録であり、未だ破られていない)。1988年に高校3年生で出場したカナダで開催されたカルガリーオリンピックでは、規定で10位と出遅れ技術点では高い評価を得たものの、芸術点が伸び悩み総合5位入賞(フリーだけでは3位)にとどまった。この大会で金メダルをとった東ドイツのカタリナ・ビットが「観客はゴム鞠が跳ねるのを見に来ているわけではない」と、暗に伊藤を揶揄したため、「フィギュアスケートは、芸術かスポーツか」という論争を生むことになる。しかし、地元カルガリーの観客は伊藤の演技をスタンディングオベーションで絶賛した。
同年、愛知県のフィギュアスケート選手権で公式戦で女子選手として初めてトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を成功させ、翌1989年、大学1年生でパリの世界選手権で優勝。日本人初のフィギュア世界チャンピオンとなる。この時のフリー演技の技術的要素の評価では、「完全無欠」とする6.0満点を9人のジャッジの内5人が付け話題となった。続く1990年にハリファックスで開催された世界選手権では連覇が期待されたが、規定(コンパルソリー)で10位と出遅れ、SP(ショートプログラム)とフリーで追い上げたが惜しくも2位だった。続く1991年のミュンヘンでの世界選手権は伊藤の不得意だった規定が廃止となり、2年ぶりの優勝が期待されたものの、公式練習中にユベール選手と接触したことから負傷し、さらにSPではコンビネーションジャンプの際にリンク外に飛び出すアクシデントもあり4位となった。
伊藤自身の選手生活において集大成となった1992年のアルベールビルオリンピックでは、オリジナル・プログラム(現在のショートプログラム)のコンビネーションジャンプのファーストジャンプを、トリプルアクセルからより確実性の高いトリプルルッツに変更して挑むも転倒。結果4位となり、金メダルは絶望的となってしまった。しかしフリー演技で、前半の2つめのコンビネーションジャンプのファーストジャンプであったトリプルアクセルに失敗しながらも、体力的に大技は困難とされる後半に再度単独ジャンプとして挑戦し見事成功。日本人女子選手では(当時)歴代最高の銀メダルを獲得。金メダルは日系アメリカ人のクリスティ・ヤマグチが取ったが、失敗を恐れずに再挑戦し、五輪の舞台で女性初のトリプルアクセルを成功させた伊藤の快挙は、日本はもちろん欧米のメディアからも賞賛された。五輪後の名古屋凱旋時には数多の人が名古屋駅に詰め掛け、電車がストップするほどの大混乱になった。
五輪後にプロ転向。1993年に世界プロフィギュア選手権大会で優勝。1994年同大会で2位。1995年、第10回インターナショナル・プロフィギュア選手権(チャレンジ・オブ・チャンピオン)優勝するなど、プロスケーターとしても世界の第一線で活躍を続けた。
Tsunami Girl
伊藤は規定演技が苦手で、プログラムが始まる時には6位〜10位の場所から逆転しなければならなかった。しかし、男子選手をも圧倒する高さと安定感のあるジャンプ技術によって、ショートプログラム、フリーで一気に順位を上げてくることから、1981年の世界フィギュアスケートジュニア選手権の頃より、ソ連コーチ陣から津波に因んだTsunami Girl(ツナミちゃん)という愛称をつけられ、恐れられるようになる。
トリプルアクセル
フィギュアスケートには、踏み切りや着地の仕方によって多数のジャンプがある。アクセル、ルッツ、フリップ、ループ、サルコウ、トゥーループの六種類が、競技会でよく使われる。ノルウェーのアクセル・パウルゼンが考案した「アクセルジャンプ」は、この六種類のジャンプの中で最も新しく考案されたもので、最も難しいジャンプと言われている。通常のジャンプは後ろ向きに踏み切るが、アクセルは前向きに踏み切って後ろ向きに着氷するので、半回転分多く回らなければならない。当然、ジャンプの高さや飛距離を誤れば転倒や怪我の恐れがある。
伊藤がトリプルアクセルを跳ぼうとした当時、女子選手はダブルアクセル(二回転半)が限界で、男子選手でも世界のトップクラスの数名しかトリプルアクセル(三回転半)を競技会で使うことは無かった。その理由は、失敗の危険性が高かったからである。「表現力不足」を指摘された伊藤は、「技術力」によって点数を補うべく、トリプルアクセルの成功にかけた。公式戦で初めてトリプルアクセルに成功したのは、1988年のカルガリー五輪後の愛知県選手権だった。そして、翌年の世界フィギュア選手権で成功させると、世界中の女子選手は、伊藤の独走を抑えるため、トリプルアクセルに挑むようになる。しかし、1992年のアルベールビル五輪までにトリプルアクセルを成功させた女子選手は、伊藤とトーニャ・ハーディングの二人だけだった。
伊藤は、アルベールビル五輪でトリプルアクセルを成功させたことで、女子フィギュアの歴史を塗り替えた。それから十数年を経た現在でも、女子選手でトリプルアクセルを成功させた選手は数えるほどしかいない。こうしてトリプルアクセルは、伊藤みどりというスケーターを象徴する技となった。
天真爛漫な苦労人
伊藤の両親は伊藤が4歳の時に離婚し母親に引き取られている。母親は伊藤にスケートを続けさせるために早朝から深夜まで働きつづけたが次第にそれではまかないきれなくなりコーチに「スケートを止める」と言ったことがある。(現にみどりと一緒にスケートをならっていたみどりの実妹はこのときスケートをやめてしまった。)しかしその才能を惜しんだ山田満知子コーチは伊藤を引き取りスケートを続けさせた。伊藤がコーチ宅に居候をしながらスケートを続けた話はあまりにも有名である。怪我や芸術点での低すぎる評価など、「天才」と言われた彼女も平坦な道を歩いてきたわけではない。しかし氷上の伊藤からは、こうした苦労人の姿を感じ取ることは出来ない。ジャンプが決まれば大はしゃぎし、完璧にプログラムを終えると自ら拍手して喜ぶ。カルガリー五輪で競技中にガッツボーズをする無邪気な姿は、これまでの優美なフィギュアスケートでは考えられなかったが、地元カナダの実況席からは「なんて楽しそうなんだ!」と、好意的なコメントが返ってきた。
長野オリンピック
伊藤は、長野オリンピックでも重要な働きをし、1991年の国際オリンピック委員会総会に振袖姿で出席し、オリンピック招致を訴えるスピーチで各国の委員に感銘を与え、長野招致を決定付けた。1995年には長野オリンピックでの出場枠獲得などの周囲の思惑もあり、一時アマチュア復帰する。1996年の全日本フィギュアスケート選手権で26歳でトリプルアクセルを成功させて、4年ぶり9度目の優勝を果たすが、同年の世界選手権は7位と不本意な結果に終わり、再び引退。1998年開催の長野五輪の開会式では、日本に26年ぶりの聖火を灯す大役を担った。
戦績
1980
全日本フィギュアスケートジュニア選手権 優勝
全日本ジュニアフリースタイル 優勝
全日本フィギュアスケート選手権 3位
世界フィギュアスケートジュニア選手権 8位
1981
全日本フリースタイル 優勝
世界フィギュアスケートジュニア選手権 6位 (国際大会で女子として初の3回転3回転のコンビネーションジャンプ成功)
1982
全日本フリースタイル 優勝 (この後、練習中に右足首骨折)
1983
全日本フリースタイル 優勝
全日本フィギュアスケートジュニア選手権 優勝
プラハ国際選手権 優勝
Enia Challenge Cup(オランダ) 2位
世界フィギュアスケートジュニア選手権 3位 (国際大会SPで女子として初の2回転3回転のコンビネーションジャンプ成功)
NHK杯 3位
1984
全日本フィギュアスケート選手権 2位
世界フィギュアスケート選手権 7位
全日本フリースタイル 優勝
スケート・カナダ 優勝 (国際大会で女子として初の5種類のトリプルジャンプ成功)
NHK杯 優勝 (トリプルアクセルをプログラムに初めて組み込むも失敗・エキシビジョンで成功させる)
1985
全日本フィギュアスケート選手権 優勝
世界フィギュアスケート選手権 -- (公式練習で右足首を痛めて欠場)
NHK杯 優勝
1986
全日本フィギュアスケート選手権 優勝
世界フィギュアスケート選手権 11位
全日本フリースタイル 優勝
NHK杯 2位
1987
全日本フィギュアスケート選手権 優勝
世界フィギュアスケート選手権 8位
全日本フリースタイル 優勝
Fuji Cup 優勝
NHK杯 2位
1988
全日本フィギュアスケート選手権 優勝
カルガリー冬季オリンピック 5位 (オリンピックで女子として初の5種類のトリプルジャンプ成功・エキシビションに特別参加)
世界フィギュアスケート選手権 6位
スケートアメリカ 2位
愛知県選手権 優勝 (公式戦で女子として初のトリプルアクセル成功)
全日本フリースタイル 優勝
NHK杯 優勝 (国際大会で女子として初のトリプルアクセル成功)
1989
全日本フィギュアスケート選手権 優勝
世界フィギュアスケート選手権 優勝 (世界選手権で女子として初のトリプルアクセル成功・女子史上最高得点をマーク)
全日本フリースタイル 優勝
NHK杯 優勝 (国際大会で日本女子として唯一のプレゼンテーション(表現点・芸術点)の満点6.0をマーク)
1990
全日本フィギュアスケート選手権 優勝
世界フィギュアスケート選手権 2位
東京選手権 優勝
東日本選手権 優勝
スケートアメリカ 2位
NHK杯 優勝
1991
全日本フィギュアスケート選手権 優勝
世界フィギュアスケート選手権 4位 (練習中に負傷)
アジアカップ 優勝
東日本選手権 優勝
Lalique Trophy(フランス) 優勝 (直前練習でトリプルアクセル−トリプルトーループのコンビネーションジャンプを披露)
NHK杯 優勝
1992
全日本フィギュアスケート選手権 優勝
アルベールビル冬季五輪 2位 (オリンピックで女子として初のトリプルアクセル成功・以後未だ成功者なし)
1993
世界プロフィギュア選手権 優勝 (プロ大会で女子として初のトリプルアクセル成功)
Durasoft Colors Challenge of Champions 3位
Freshlook Challenge of Champions 優勝
1994
世界プロフィギュア選手権 2位
1995
Challenge of Champions 優勝
世界プロフィギュア選手権 2位
1996
全日本フィギュアスケート選手権 優勝
世界フィギュアスケート選手権 7位
2001
ジャパンオープン 3位
関連書籍
『タイムパッセージ−時間旅行』伊藤みどり著 紀伊國屋書店(1993/01)
『氷上の宝石-伊藤みどり写真集』あすか書房(1993/09)
『銀板のエンジェル-伊藤みどり物語』藤崎康夫著 エフエー出版(1992/12)
関連項目
フィギュアスケート
日本の冬季オリンピック銀メダル
世界フィギュアスケート選手権
世界ジュニアフィギュアスケート選手権
全日本フィギュアスケート選手権
フィギュアスケート選手一覧
ギネスブック--世界一の一覧
外部リンク
Official Site World Figure Skating Museum and Hall of Fame(世界フィギュアスケート博物館と栄誉の殿堂)
Guinness World Records/Sports and Games/Winter Sports/Figure Skating(ギネス世界記録/フィギュアスケート/女子フィギュア最高得点)
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E3%81%BF%E3%81%A9%E3%82%8A" より作成
カテゴリ: 日本のフィギュアスケート選手 | 日本のオリンピック選手 | 1969年生 | 愛知県出身の人物

関連の高いサイト

スターズ オン アイス、箱根駅伝と
ことが大事ですからね!8日のスターズ・オン・アイスはどうなるんですかね〜?今日の大会を欠場したんだから、スターズ・オン・アイスも欠場する気がするけど・・・。なんか所詮は外人のものだし、外人の方が美しいし。まして伊藤みどりはブスだ

働く女性の全国センター
やセクハラなどの問題を抱えた女性に、近くのユニオンや弁護士、 カウンセラーを紹介するほか、調査や政策提言も行う。呼び掛け人代表の伊藤みどりさん(女性ユニオン東京)は、 「どこで相談すればよいか悩んでいる女性は多い。セクハラ被害による心の 問題など労働

年末年始
……鏡やら薔薇やらの小道具(っていうか鏡は大道具か)アリのオペラ座の怪人、観たかった!しかも最後みどりさんに薔薇渡すし……アナウンサー、「伊藤みどりさんは10.0をつけています!」って、バラすなよ(笑)いやしかし、あれは楽しそうです、本当。しかし私

スターズ・オン・アイス
いと思ったことも見たいと思ったこともなかった。なんか所詮は外人のものだし、外人の方が美しいし。まして伊藤みどりはブスだし。そう思いばがら、仕事で「スターズオンアイス」のために札幌までイヤイヤ行った。そしてものすごいショックを受けた。凄

感動!
いた自分。一度だけ着ぐるみのスケートショー(?)を小さい頃連れて行ってもらったことがある記憶がうっすらとあります。伊藤みどり選手がプロスケーターとなってショーに出るようになってから、ずっと見に行きたいと思っていた。でも、子育てに忙し

いよいよ明日
の母校はアイスアリーナから割と近くて、アルベールビルオリンピックの後で、伊藤みどり&山田満知子コーチが講演会で来たのでした。でも、私は貧血が酷くて学校を休んで見れず終い。学校はみどりフィーバーに沸いていて、流れに乗り損なった感があり

お別れ会的なもの
足乗せたときはビクビクだったけどけっこうすぐ慣れて楽しかった!!!リレーとかおにごっこやったしね・・・高校生と専門学校生が。笑伊藤みどりも居たしね!!!!!ホントだよ子供のスケート教室の先生としてきてたっぽい。なんか雰囲気が違った。綺麗

田楽とスケートリンク
お昼、田楽を食べました。ここは2回目です。田楽って知らない人がいるかも知れません。東海3県独特の食べ物かも。スケートリンク前も通りました。ここで、あの伊藤みどりさんが育ちました。浅田真央ちゃんも、昨年までここで滑っていました。

氷上のNo.1アーティスト決定戦 vol.
日本の男子選手も個性派揃いなんですね。『メダリスト・オン・アイス』での『冬のソナタ』な神崎範之kunも良かったけど、伊藤みどりchanに薔薇を捧げる神崎kunも実に考え抜いた演出でした。でもやっぱり感じることは同じな人が多いのか、中庭健介kun

False Start フィギュアスケートバトン
技が規定に加わりました。何でしょうか?衣装早着替え。・手っ取り早くリンクを作るには、どうしたらいいですかね?伊藤みどりさんと佐野稔さんを国会に送り込む。勢いでリンク作らせる!・・・それか裏金をクリーンにしてリンク作る。・まさか!あのポエムが



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

安賢洙

男子 ショートトラック

2006
男子 1000m

2006
男子 1500m

2006
男子 5000m リレー

2006
男子 500m
安賢洙
{{{picture-type}}}
{{{caption}}}
各種表記
ハングル:
???
漢字:
安賢洙
平仮名:
(日本語読み仮名):
{{{hiragana}}}
片仮名:
(現地語読み仮名):
アン ヒョンス
ラテン文字転写:
Ahn Hyun-Soo
{{{alphabet-type}}}:
{{{alphabet}}}
安賢洙(アン ヒョンス、1985年11月23日- )は、韓国のショートトラックスケートの選手。
2006年のトリノオリンピックでは3つの金メダルを獲得した。
コメディアンを髣髴させる茶髪がトレードマーク。
この「安賢洙」は、スポーツ人名に関連した書きかけ項目です。この項目を加筆、訂正などして下さる協力者を求めています。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%B3%A2%E6%B4%99" より作成
カテゴリ: スポーツ関連の人名スタブ項目 | スピードスケート選手 | 1985年生 | 韓国のオリンピック選手

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ボフロスト杯

ボフロスト杯(−はい/Bofrost-Cup)は2004年までドイツで開催されていたフィギュアスケートの大会。2002年まではISUグランプリシリーズの一つとして開催されていた。2003年からは当大会に替わって中国杯がISUグランプリシリーズに組み込まれている。
1995年まではネイションズ杯(Nations Cup)、1996年から2001年まではスパルカッセン杯(Sparkassen Cup)として開催されていた。
目次
1 歴代優勝者
1.1 1995年〜2002年
1.2 2003年、2004年
2 ISUグランプリシリーズ
3 外部サイト
//
歴代優勝者
1995年〜2002年

開催地
男子シングル
女子シングル
ペア
アイスダンス
1995年
ゲルゼンキルヒェン
トッド・エルドリッジ
ミシェル・クワン
マリナ・エルツォワ/アンドレイ・ブシュコフ
アンジェリカ・クリロワ/オレグ・オヴシャンニコフ
1996年
ゲルゼンキルヒェン
アレクセイ・ウルマノフ
イリーナ・スルツカヤ
マンディー・ヴェッツェル/インゴ・シュトイアー
アンジェリカ・クリロワ/オレグ・オヴシャンニコフ
1997年
ゲルゼンキルヒェン
エルビス・ストイコ
ターニャ・シェフチェンコ
マンディー・ヴェッツェル/インゴ・シュトイアー
アンジェリカ・クリロワ/オレグ・オヴシャンニコフ
1998年
ゲルゼンキルヒェン
アレクセイ・ヤグディン
エレーナ・ソコロワ
マリア・ペトロワ/アレクセイ・ティホノフ
アンジェリカ・クリロワ/オレグ・オヴシャンニコフ
1999年
ゲルゼンキルヒェン
エフゲニー・プルシェンコ
マリア・ブッテルスカヤ
マリア・ペトロワ/アレクセイ・ティホノフ
シェイリー・ボーン/ヴィクター・クラーツ
2000年
ゲルゼンキルヒェン
エフゲニー・プルシェンコ
マリア・ブッテルスカヤ
サラ・アビトボル/ステファン・ベルナディス
バーバラ・フーサル=ポリ/マウリッツィオ・マルガリオ
2001年
ゲルゼンキルヒェン
エフゲニー・プルシェンコ
マリア・ブッテルスカヤ
申雪/趙宏博
バーバラ・フーサル=ポリ/マウリッツィオ・マルガリオ
2002年
ゲルゼンキルヒェン
エフゲニー・プルシェンコ
恩田美栄
申雪/趙宏博
アルベナ・デンコワ/マキシム・スタビスキー
2003年、2004年
2003年より競技方法が変更となり、男子、女子シングルとペアは、Jump Competitionとフリースケーティング、アイスダンスはオリジナルダンスと、フリーダンスで競われた。

開催地
男子シングル
女子シングル
ペア
アイスダンス
2003年
ゲルゼンキルヒェン
ステファン・リンデマン
ジョアニー・ロシェット
バレリー・マルコー/クレイグ・ブンタン
マリー-フランス・デュブロイユ/パトリス・ローゾン
2004年
ゲルゼンキルヒェン
ステファン・リンデマン
ジェーン・ブガエワ
ヴィクトリア・ボルゼンコワ/アンドレイ・シュヴィリャーエフ
アルベナ・デンコワ/マキシム・スタビスキー
ISUグランプリシリーズ
スケートアメリカ
スケートカナダ
中国杯
エリック・ボンパール杯
ロシア杯
NHK杯
グランプリファイナル
外部サイト
International Skating Union
Deutsche Eislauf-Union e.V.
この「ボフロスト杯」は、スポーツに関連した書きかけ項目です。この項目を加筆、訂正などして下さる協力者を求めています。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%88%E6%9D%AF" より作成
カテゴリ: スポーツ関連のスタブ項目 | フィギュアスケート大会 | ドイツのスポーツ

関連の高いサイト

織田信成
織田信成 by NEWSサイトMSN-Mainichi INTERACTIVE フィギュアスケート2006年10月29日(日) 0時00分けど」と話した。【共同】============== ◇フィギュアGPシリーズ日本選手優勝2001年 NHK杯 本田武史 02年 スケートカナダ 本田武史 ボフロスト杯 恩田美栄 NHK杯 恩田美栄 03



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ソルトレイクシティオリンピックにおけるフィギュアスケート・スキャンダル

中立的な観点:この記事は、中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、あるいは議論中です。そのため、偏った観点によって記事が構成されている可能性があります。詳しくは、この記事のノートを参照してください。
ソルトレイクシティオリンピックにおけるフィギュアスケート・スキャンダルとは、2002年にソルトレイクシティオリンピックにおけるフィギュアスケート競技において発生した一連の事件を総称したものである。
この一連の事件は関係機関(IOCあるいはISU)において正式な名称を与えられているわけではないが、一般に「figure skating scandal」「figure skating judging scandal」などと呼ばれて、議論の対象となっている(「figure skating」は日本語名詞「フィギュアスケート」に対応する英語名詞である)。
目次
1 総説
2 ペア競技における判定疑惑
3 女子シングル競技における難解な結末
4 アイスダンスにおける選手からの批判
5 歴史的意義
6 脚注
7 外部リンク
//
総説
2002年に開催されたソルトレイクシティオリンピックにおけるフィギュアスケート競技では、判定を巡る激しい論争が発生し、これをきっかけにしてフィギュアスケート競技の採点方法が全面的に変更されることとなった。また、この事件に続いて発生したISU内部の一連の内紛においてはロン・フェニングら一部の理事が連盟の運営方針を痛烈に批判し、ISU及び各国のスケート連盟から追放されるという事態ともなった。
ペア競技における判定疑惑
ソルトレイク大会当時は、旧採点システムであり、ショートプログラムの順位点とフリー演技の順位点によって総合順位を決める方式だったが、問題となったのはこの「順位点」システムである。
問題の発端はペア競技である。ロシア代表のエレーナ・ベレズナヤ&アントン・シハルリドゼ組と、カナダ代表のジェイミー・サレー&デヴィッド・ペルティエ組の順位点である。ショートプログラムを1位で通過したロシア組は、フリー・プログラムにおいて男性が1回だけジャンプ着氷時にステッピングアウトを犯してしまう。一方、続いて滑ったカナダ組はノーミスで演技を終えた。演技終了後カナダ組には大歓声が注がれ、会場もカナダ組も優勝を確信した。しかし採点では9人のジャッジのうち5人がロシア組に1位を付け、カナダ組は銀メダルとなった(ロシア、中国、ウクライナ、ポーランド、フランスがロシア優位の判定で、アメリカ、カナダ、日本、ドイツがカナダ優位の判定)。
当初カナダ組はこの結果を受け入れていたが、アメリカとカナダのマスコミは、ノーミスであったカナダ組が着氷ミスをしたロシア組に負けるのは不当判定であるとして大騒ぎを始めた(他国のメディアはこの騒ぎを客観的に報道するのみであった)。そうした中で、フランスのジャッジであったマリー・レイヌ・ルグーニュが、ISUの技術委員会において「フランスの連盟会長から、アイスダンスのマリナ・アニシナ&グェンダル・ペイゼラ組をイリーナ・ロバチェバ&イリヤ・アベルブフ組に勝たせるという交換条件に、ペアではロシア組を勝たせてくれ」と言われたと証言して騒ぎは拡大した。結局ル=ゴーゲは後に署名入りの文書において「圧力は存在せず、自分はロシア組の優勝を確信している」と表明したが、アメリカ・カナダ両国民や両国マスメディアはこの結論に納得せず、騒ぎ続けた。
この騒ぎを受けてISUのチンクワンタ会長は独自の行動を表明。「フランスの審判員に不適切な行為があった」という理由を示してフランスの審判員の判定を削除し、順位点1位の数を4対4の同数に変更してカナダ組にも金メダルを授与した。
この問題に関してISUはマリー・レーヌ・ルグーニュとフランス連盟会長に3年間の国際試合出入り禁止及びトリノ・オリンピック出入り禁止を決定して全ての調査を終えた。
なお、この事件を受けて導入されたフィギュアスケート競技の新採点システムでは、ある競技者がジャンプにおける些細なミスを犯したとしても、他の部分の技の難度や質が高ければ、ノーミスの競技者よりも高い点数が出ることも珍しくない。たとえば、新採点システムではジャンプ着氷時のステッピングアウトは「減点2(Grade of Executionによる)」であり、ジャンプそのものへの評価は行われる。よって、旧採点システムに見られるような「ジャンプを1回失敗したからといってそれが演技全体の評価につながる」と思われていた以前の主観性を排除した採点システムとなっている。
女子シングル競技における難解な結末
旧採点システムによる一般にはわかりにくい順位決定は女子シングル競技でも発生した。ショートプログラム4位で自力優勝は不可能と見られていたサラ・ヒューズが優勝してしまうという大逆転が起こったのである。旧採点システムではショートプログラム4位からの自力優勝は不可能である。その理由は順位点にある。
単純に6.0満点の点数を合計するだけならば以下のような説明になる。 この時のフリー演技におけるサラ・ヒューズの合計点は103.8点(技術点52.0点+芸術点51.8点)で、スルツカヤの獲得した103.9点(52.1点+51.8点)より低かった。ショートプログラムでスルツカヤより下位(スルツカヤ2位、ヒューズ4位)であり、さらにフリー・プログラムでもスルツカヤより合計点は低かったサラ・ヒューズの優勝は、点数を基準に順位が決定されるとすれば、あり得ないことである。
しかし旧採点システムでは「順位点」が重要である。ショートプログラム、フリーのそれぞれでの順位決定方法は合計点数ではなく、ジャッジごとの各選手の相対的な順位の付け方によって決定されることとなっていた。
ショート終了時に順位点2.0のサラ・ヒューズが総合1位となった理由は次のようなものである。
旧採点システムのフィギュアスケート競技においては順位を決定する際、技術点+芸術点の合計ではなくより上の順位をつけたジャッジの人数が多い選手を上位とするというルールであった。そして出場した選手中でサラ・ヒューズに最も高い点を出したジャッジが5人だったのに対し、スルツカヤに最も高い点を出したジャッジは4人だったのである。そのためフリーの演技で獲得した点数はスルツカヤの方が多かったにも関わらず、1位採点をより多く獲得したサラ・ヒューズがスルツカヤを抑えてフリー1位となったのである。しかし、これでもまだサラ・ヒューズとスルツカヤの順位点は同じ3.0である。そこで「順位点が並んだ場合はフリーの順位点で上回った方がより上位となる」という規定が適用され、サラ・ヒューズ優勝という結果となったのであった。ちなみにショートプログラムで1位であったミシェル・クワンがフリーで2位以内に入れば、順位点合計2.5となり、サラ・ヒューズ優勝は不可能であった。言わばサラ・ヒューズは二重の幸運に恵まれた、まさに「奇跡の逆転優勝」だったのである。(下表参照)
順位
選手名
ショート順位
フリー順位
順位点
1位
サラ・ヒューズ
4位(2.0)
1位(1.0)
3.0
2位
イリーナ・スルツカヤ
2位(1.0)
2位(2.0)
3.0
3位
ミシェル・クワン
1位(0.5)
3位(3.0)
3.5
4位
サーシャ・コーエン
3位(1.5)
4位(4.0)
5.5
こうした「順位点」最優先の判定は、個々の審判員が競技結果に与える影響が大きすぎ、また客観性に欠けるとして、新採点システムでは単純に獲得点の合計が多い方が勝つという考え方に変更されている。
アイスダンスにおける選手からの批判
この大会での判定への疑問はさらに選手からも提出されている。アイスダンスのリトアニア代表であったマルガリータ・ドロビアツコ&ポビラス・バナガス組は、フリー・プログラムにおいて彼等がイタリア代表のフーサル=ポリ&マルガリオ組より判定が低かったのは意図的なものだとして、正式な抗議を提出したが[1]、これもペア競技が大騒ぎになった事例とは異なり、ISUからは一顧だにされなかった。
歴史的意義
この事件をきっかけとしてフィギュアスケート競技の国際競技会における採点方法は大きく変化した(チンクアンタ会長がこの事件とそれに伴う激しいメディアからの圧力に強い危機感を感じていたこと、それが採点システム変更の直接のきっかけとなったことは、外部リンク「Text of Ottavio Cinquanta's Letter to the ISU Council」に示された2002年10月1日付けの彼の書簡から容易に読み取ることが出来る)。チンクアンタはオリンピック開催期間中である2月16日に早くも「数日以内に新しい採点システムを提案する」と表明(外部リンク「Salt Lake fated by 'Skategate'」参照)。2月18日に発表された素案についてチンクアンタは「判定における国と国の間の裏取引を防ぐためのシステムである」と表明している。[2]
ちなみにこの新採点システムについてISUは構想発表時に「ソルトレイク・シティで発生したような判定を巡るトラブルを一掃する為のシステム」と説明している。[3]
新旧の採点システムの具体的な違いについては「フィギュアスケート」の項目中に詳細な説明があるので、本項では割愛し、本事件との関わりに限定して説明する。
本事件がフィギュアスケート競技の新しい採点システム(いわゆる「新採点システム」)に与えた直接の影響は以下の3点「順位点概念の放棄」「判定採用の乱数化」「判定の匿名化」である。
既に述べたように、この一連の事件のうちペア競技、女子シングル競技における議論は、「順位点」を競技の勝敗を決する為の最も重要な概念として用いていたことに由来する。言い換えれば、この時までは同等の質の演技をした競技者に対しても審判員は必ず優劣を付けなければならなかったのであり、その際にどちらを上に置くかという点への説明責任は厳しく求められなかった。この結果、伯仲した二つの演技の判定を巡っては常に「ひいきがあった」という批判が上がっていた。しかし、この「順位点」概念の弊害がこうして明らかになった結果、改正された採点システムからこの概念は完全に取り除かれることとなった。
次に重要なのは、判定採用の乱数化である。旧採点システムにおいては、審判員の判定は全て採用されていた。つまりある審判員の判定に影響を及ぼすことが出来れば、その影響力は確実に得点や順位に反映されたのである。しかしこの事件によって審判員への圧力の存在が明らかになった為、当時のISU会長であったオタービオ・チンクアンタは判定の採用の乱数化のアイデアを提唱。このアイデアを巡ってはISU加盟各国から激しい反対意見も上がったが、最終的にはチンクアンタ案が採用され、「採点に関わった審判員の採点のうち、一定数をその都度乱数によって採用して得点とする」というシステムとなった。
また、従来はどの審判員が何点を出したかが明示されるシステムであったが、新採点システムにおいては、誰が何点を出したのかは全く判らないようになっている。これもまた、ペア競技において発生したと言われる「国同士の取引」を予防する措置である。ただ、こうした「判定の匿名化」には別の意図もあったのではないかと、ジョージ・ロサーノは指摘している。ロサーノによれば、2004年の世界選手権においてこの「判定の匿名化」について懇談していた際、チンクワンタは「この新採点システムによって、ISUは世論や競技者による判定への批判から解放される」と明言したとされる(ロサーノはこれに関連し、「新採点システム導入の最大の目的は判定への異議の根絶なのではないか」とも指摘している)。先に言及した書簡と併せ、この逸話はソルトレイク・シティ・オリンピックにおいて続出したISU外部からの判定への異議に、チンクワンタがいかに神経をとがらせていたかを物語るものと言える。[4]
なお、こうした採点システムはISUが公認する競技会では完全に用いられているが、ISU非公認の競技会では異なる採点システムが用いられることもある。例えばアメリカ・スケート連盟(The United States Figure Skating Association)が主催する国内大会においては「判定採用の乱数化」「判定の匿名化」は行われておらず、全ての審判員の採点が採用され、なおかつ誰が何点を出したのかも明示されている。
また、1967年から1988年までISU会長を務めたソニア・ビアンケッティによれば新しい採点システムにおいてはステップやスピン、技と技の繋ぎなどにも大きく加点されるようになった為、演技の傾向が「ジャンプ最優先」から、ステップやスピンにも力を注ぐものへと変化していったとされる。[5]
脚注
↑ ESPN2002年7月31日ニュース
↑ ISU council votes to scrap skating judging system
↑ Figure skating tests new judging system
↑ Ice Skating International: online
↑ ソニア・ビアンケッティの発言
外部リンク
Salt Lake fated by 'Skategate'
Text of Ottavio Cinquanta's Letter to the ISU Council
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AB" より作成
カテゴリ: 中立的観点に議論ある項目 | ソルトレークシティオリンピックにおける各競技 | フィギュアスケート

関連の高いサイト

イナバウアーを見た!!
昨夜は友人たちと真駒内アイス・アリーナに「スターズ・オン・アイス・イン・ジャパン」を見に行きました。1月なのにひどい雨、足元は凍っているので入場前からアイススケート状態(?)荒川静香さんのイナバウアーは美しく、浅田舞さんは優しく女性はみんなきれいで力強

真央が華麗な演技で8000
フィギュアスケートのアイスショー「スターズ・オン・アイス」が6日、札幌真駒内アイスアリーナで行われ、12月に行われた全日本選手権で優勝した女子シングルの浅田真央(16=中京大中京高)ら国内外のトップスケーター18人が出演した。

スターズ オン アイス、箱根駅伝と
今は肩を治すことが大事ですからね!8日のスターズ・オン・アイスはどうなるんですかね〜?今日の大会を欠場したんだから、スターズ・オン・アイスも欠場する気がするけど・・・。なんか所詮は外人のものだし、外人の方が美しいし。

浅田真央の人気がうらやましい
プロによる北米の人気アイスショー「スターズ・オン・アイス」が6日、札幌市の真駒内屋内競技場で行われ、女子の浅田真央(16)=愛知・中京大中京高=ら世界選手権男女代表3人が荒川静香さん(25)らとともにゲスト出演し、超満員の8200人

はてなアンテナ ページが更新され
titlehttp://finance.livedoor.com/list?id=2真央が華麗な演技で8000人を魅了フィギュアスケートのアイスショー「スターズ・オン・アイス」が6日、札幌真駒内アイスアリーナで行われ、12月に行われた全日本選手権で優勝した...前川投手が無免許

真央がアイスショーに登場-8200
プロによる北米の人気アイスショー「スターズ・オン・アイス」が6日、札幌市の真駒内屋内競技場で行われ、女子の浅田真央(16)=愛知・中京大中京高=ら世界選手権男女代表3人が荒川静香さん(25)らとともにゲスト出演し、超満員の8200人

真央が華麗な演技で8000
真央が華麗な演技で8000人を魅了 フィギュアスケートのアイスショー「スターズ・オン・アイス」が6日、 札幌真駒内アイスアリーナで行われ、 12月に行われた全日本選手権で優勝した 女子シングルの浅田真央(16=中京大中京高)ら 国内外のトップスケーター18人が出

央選手、プロのアイスショーに
フィギュアスケートのプロによる北米の人気アイスショー「スターズ・オン・アイス」が6日、札幌市の真駒内屋内競技場で行われ、女子の浅田真央(愛知・中京大中京高)ら世界選手権男女代表3人が荒川静香さんらとともにゲスト出演し、超満員の8200人のファンを盛り上げ

話しかけちゃいました・・
2007.01.06 それは昨日の真駒内アイスアリーナで開催された「スターズ・オン・アイス・イン・ジャパン」でのこと。数々の外国人スター・スケーターの華麗な演技のあとに登場した「荒川静香」さん・・・。彼女が氷上に現れた瞬間は

stars on ice、札幌でアイス
いやあ〜、やっと手に入ったよ。「stars on ice 」の札幌公演のチケット!!昔からフィギュアは好きです。特にアイスダンスが好きです。更にロシア組のアイスダンスが好きです。スターズ・オン・アイス イン・ジャパンhttp://www.ekekdbj.com/special/index_stars



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

Appendix

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

プロフィール

Author:figuredic
FC2ブログへようこそ!

最近の記事

最近のトラックバック

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索